
本市は核兵器のない平和な世界を目指す平和首長会議に加盟しています
第二次世界大戦の終結から今年で80年。当時を知る人が少なくなり、記憶の伝承が課題となっています。
今もなお、世界各地では争いが起こり、誰もが戦争と無関係ではいられません。特集では、平和のために活動している人やイベントを紹介します。
【インタビュー】
・100歳の語り部 西倉 勝さん(南区在住・100歳)
平成29年から、平和祈念展示資料館(新宿区西新宿)で、自身のシベリア抑留体験の語り部として活動。令和4年公開の映画『ラーゲリより愛を込めて』にもアドバイザーとして関わるなど、現在も自身の体験を伝える活動を続けている
・市民平和のつどい実行委員の大学生 吉田武人さん(中央区在住・23歳)
令和4年から、市が主催する「市民平和のつどい実行委員」を務める。ジャーナリストを志し、国内の他大学だけでなく、韓国の大学生とも交流を広げ、ウクライナ侵攻や沖縄戦、朝鮮戦争等の幅広いテーマで講演会などを企画・開催している
■語り継ぐ体験、受け継ぐ思い
▽平和のための活動を始めたきっかけ
西倉:保険の仕事をしていたんだけど、定年後に年金相談員として30年間、日本全国を飛び回って、たくさんの人に感謝されてね。そのかたわら、自分の体験を話すことがあった。そうしていたら10年ほど前に、新宿の平和祈念展示資料館でシベリア抑留体験の語り部をしてほしいと依頼された。自分でできることならなんでもするつもりで引き受けたよ。
吉田:祖母からシベリア抑留されたという祖母のおじの話を聞いていて、戦争の話に関心を持ち、映画鑑賞会で『はだしのゲン』を見たり、友人とイベントに参加したりしていました。市民まつりの原爆パネル展を見ていたときに、丸山さん※に声をかけてもらって、市内で開催している講演会や市民平和のつどいに参加するようになりました。
※相模原原爆被災者の会会長。「《特集》戦後80年 平和への願い(2)」掲載の講演会にも参加
▽自分にとっての戦争
西倉:若いころは常にそういうもんだ(戦争に行くものだ)と覚悟していた。(国のために死ぬことが)当然と、そう教えられてたからね。だけど、あっちゃいけないものだよ。人が人を殺す。とんでもないことだよ。女性も子どもも死んでいく。なくさなくちゃいけない。
吉田:沖縄戦をテーマに、遺構見学や沖縄出身の学生との対話会などを企画・開催しています。この活動で韓国の大学生などとの交流も広がりました。他にはウクライナ侵攻を取材したジャーナリストの講演会を開催したり、パレスチナ問題の動画を鑑賞したり、留学生と話し合ったりなど。自分や周囲にとっては、過去に日本で起こった戦争より、今世界で起こっている戦争の方が、テレビなどで情報を得られる分、危機感があるかも。当時を知る人や報道などが少なくなり、80年前の戦争についてのリアルな声が遠のいてきていると感じます。
▽平和をつないでいくために
西倉:終戦のかなり後になってスターリンの極秘指令が公開された。すでに戦争は終わっているのに、コムソモリスク(現ロシア極東部)の建設現場(自分たちが連れていかれた場所)に、1万5,000人が連れていかれることが決定していた。当時現地にいた自分たちは何も分からないまま、国家にたくさんの人の運命が決められていた。個人が戦争をなくすなんて難しい。だけど自分ができることをやらなきゃ何も変わらない。声を上げずにいられないんだよ。戦争はだめだ、けしからんってね。国連、特に常任理事国がもっとしっかりしてほしい。
吉田:知ることが大事なのかなって思います。今の技術も使って、当時の写真などもどんどん共有していって。オンラインで交流もできるんじゃないかと。民間同士が交流を持って友達になることも重要だと思います。市内にも外国から来た人はたくさんいるけど、あまりスムーズに交流できてないなと感じます。知り合う場も作れればなと。
西倉:シベリア抑留中の話をするとき、ジャガイモのバター炒めをふるまってくれたママさんの話をいつもしている。国家が冷酷でも温かい人たちはいる。そこにこそ生きていることの幸せを思う。若い人にも知ってほしい。吉田さんのような若者がどんどん外国へ行くべきだよ。市民外交でね、からまった糸がほぐれることを祈っています。
■西倉さんの戦争体験「シベリア抑留を生きぬいて」
※市への寄稿を要約
シベリアに抑留された人は約60万人。3年から11年の抑留で、1割に上る約6万人が異国の地で命を落としました。
▽19歳で徴兵され戦争へ
昭和20年1月15日、故郷の新潟県で入隊し、月末には朝鮮北部へ。ソ連戦に備えた陣地作りも未完成のまま、8月には終戦を知らされ、銃や弾薬などを回収するため集まるよう言われました。従わねば射殺されるとうわさが飛び交い、死を覚悟して自決用の手榴弾を胸に目的地へ向かいました。
仮収容所に約3週間滞在後、「帰国させる」と言われ、200kmの道のりを10日間野宿しながら行軍しました。到着後、貨車に乗せられ、北へ向かっていることが分かると、あちらこちらから悲鳴が上がりました。家畜同然に移送され、4日後に到着したのはシベリアでした。
▽ラーゲリ(収容所)での過酷な強制労働と市民とのふれあい
地面がコンクリートのように固く凍てつく寒さの中、銃を持った兵士に監視され、道路工事や農作業などに従事しました。眠るときは3人で1人1枚の毛布を重ねて温め合いました。食事は1日1食わずかな黒パンと具の少ないスープ、ノルマを達成できないとさらに減らされることも。寒さや飢え、過酷な肉体労働で皆衰弱していきました。自分も39度の高熱を出して倒れ、急性胸膜炎で半年近く野戦病院に入院しましたが、幸い一命を取り留めました。
温かなつながりもありました。市民宅に派遣されたとき、その家の女性がジャガイモのバター炒めを作ってくれました。それがおいしかったことが今でも忘れられません。
帰国を許されたのは昭和23年。3年7カ月ぶりに日本へ戻りました。
問い合わせ:国際課
電話042-707-1569
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