昭和の初め、相模原には、広大で平坦な土地を利用したまちづくりの計画がありました。現在の相模原の発展にも大きな影響を与えた「計画」とは?3つのキーワードから歴史を辿ってみましょう。
■キーワード「星」
▽足元の“星”のなぞ
相模女子大学(南区文京)の校内には、他では見掛けないマンホールがあります。
中央にあしらわれているのは“星”。この星にはどのような意味があるのでしょうか?
同大学とその周辺には、昭和14年(1939年)に杉並から移転して来た旧陸軍通信学校がありました。マンホール以外にも、市の登録文化財となっている将校集会所(現在は大学の事業などで使用)やフランス庭園のほか、給水塔などといった当時の施設が今も残っています。マンホールにあった星マーク、それは旧陸軍のシンボルマークでした。
・星マークのマンホール(同大学構内)
・将校集会所だった建物とフランス庭園(同大学構内)
・同大学正門。将校集会所(外観のみ)、マンホールなどの見学は、現在、新型コロナウイルス感染症拡大防止のため、中止しています。
問い合わせ:同大学総務課
電話042-742-1411
▽“星”を冠する街
“星”は地名にも残っています。上溝駅から市役所に向かう市役所前さくら通り沿いの右手に「星が丘」地区があります。通りをそのまま北上したところには、旧相模陸軍造兵廠(現:在日米陸軍相模総合補給廠。以降、造兵廠と表記)があり、星が丘は、主に造兵廠に通う工員やその家族用に住宅地が造成された場所でした。造兵廠に徒歩でも通勤できるという理由で、この土地が選ばれました。
マンホールと同様、地名のルーツは旧陸軍のシンボルマークだったと言われています。
・昭和14~15年ごろに作成された「相模原集団住宅計画図」(紙面またはPDF版をご覧ください)。
当時の星が丘周辺をこのように造成しようとしていた
☆1 現:横山二丁目交差点
☆2 現:星が丘小学校
☆3 現:千代田二丁目交差点
出典:市史現代テーマ編(一部加筆)
■キーワード「行幸」
▽8,000人余りで整えた道
南区に「行幸道路」と呼ばれ、小田急小田原線と並行して走る道があります。昭和12年(1937年)に移転してきた旧陸軍士官学校(現:在日米陸軍キャンプ座間。以降、士官学校と表記)に、昭和天皇が行幸(天皇の外出)するために整備されたことが名前の由来です。
士官学校の卒業式への行幸に間に合わせるための工事は、当時、重機がほとんどない中で、青年団体や生徒など、一般の市民も参加した突貫工事だったと記録に残っています。元は曲がりくねった細い道でしたが、現在では、1日1万台以上の車両が通行する主要な道路となっています。
・旧陸軍士官学校正門。昭和12年(1937年)ごろ撮影
出典:市立博物館
■キーワード「相武」
▽昭和天皇が名付けた土地
士官学校があった場所は、昭和天皇により「相武臺(台)」と命名されました。「武(軍)」を「相る」に適した場所で、相模国の古い名「相武」にちなんでいます。戦後も、地名や駅名として親しまれ、士官学校があった在日米陸軍キャンプ座間内には、今も命名を記念した石碑が残っています。
・在日米陸軍キャンプ座間のメインゲート(正面ゲート)近くに今も残る記念の石碑
(一般公開はしていません)
■“星”“行幸”“相武”から浮かび上がる共通点
ここまで追ってきた3つのキーワードに共通するのは、いずれも旧陸軍の施設にゆかりがあるということ。
昭和10年代、東京に集中していた軍関係の施設は、軍需の拡大を受けて手狭になり、新たに広い土地に移す必要がありました。複数あった候補地の中から相模原の地が選ばれ、旧陸軍関係の工場や学校、病院など、8つの施設が次々に移転・新設されました。
・昭和16年(1941年)当時の施設配置図
※昭和18年(1943年)設置の旧陸軍機甲整備学校を加筆
(詳しくは、紙面またはPDF版をご覧ください)
◆なぜ相模原が選ばれたのか
▽理由1
未開拓で広大な相模原の台地は、開発がしやすい場所だった
▽理由2
東京から40km圏内と程よい距離で、職員の通勤に適していた
▽理由3
八王子など、他の候補地に比べ、土地の価格が手頃だった
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旧陸軍の施設が次々に立地
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◆急速に進んだ開発~軍都計画を礎に今も発展~
▽幹線道路と街区の整備
~中央区エリア~
陸軍施設の移転を受け、県が相模陸軍造兵廠を中心とした区画整理事業を実行(⇒『軍都建設計画』(通称:軍都計画))
・主要な道路の整備
・住宅地の開発
・上水道の整備
・軍需産業を支える工業集積 など
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現在の国道16号や市役所さくら通りの整備を実施。それらを軸として500mごとに整然とした街区が形成され、軍都としてのまちづくりが進んだ
▽新駅の開発
~南区エリア~
複数の学校・病院施設を建設
・陸軍士官学校
・陸軍通信学校
・相模原陸軍病院 など
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鉄道駅が整備され、学都として利便性の向上が進んだ
・「通信学校駅」(現:相模大野駅)
・「相模原駅」(現:小田急相模原駅)
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道路や鉄道駅など、現在も市民生活を支えている多くの主要な都市インフラが、この時代に整えられたことが分かる!
▽“歴史のないまち”と言われがちですが…
昭和10年代の相模原は、全国一の規模の都市建設の計画が作られた場所でした。このいわゆる軍都計画は、戦後に相模原が発展を遂げる礎となり、現在の街の姿にも関わっています。
市立博物館 学芸員 木村弘樹
昭和20年(1945年)、終戦とともに軍都計画は幕を閉じました。戦後、旧陸軍の施設は米軍に接収されましたが、一部返還された土地は現在、学校やJAXAなどの研究機関、公園などになっています。
市では引き続き、全面返還に向けた取り組みを続けていきます。
■相模原の歴史をもっと学びたい人は
市立博物館では、軍都計画に関すする常設展示があります。もっと深く学びたい人人には、2階の市民研究室もお薦めです。
市立博物館(中央区高根3-1-15)
電話042-750-8030
開館時間:午前9時30分~午後5時(月曜日・国民の祝日の翌日を除く)
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問い合わせ:広聴広報課
電話042-769-8200
■新たなるステージへ
今秋11月14日(土) 相模原駅北口に大規模な公園がオープン!
総面積10ha!
相模総合補給廠共同使用区域内に「相模原スポーツ・レクリエーションパーク」が一部オープンします。
まずはこの秋、芝生広場と遊具広場が利用できるようになります。
今後は、人工芝グランドや軟式野球場などを順次整備していきます。
問い合わせ:公園課
電話042-707-7022
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