昔から川は人々の生活に欠かせないものであり、川の周辺にはさまざまな文化や歴史が育まれてきました。
本市と町田市の間を流れる境川は、城山湖付近を水源として、江の島付近で相模湾に流れ込む総延長約52キロメートルの河川で、周辺には史跡や伝承が残るスポットが数多くあります。
歴史に思いをはせながら、境川沿いをゆっくり散策してみませんか。
◆境川の歴史
境川は、昔「高座川」または「田倉川」と呼ばれていました。1594年に相模国と武蔵国の境界として定められたことから現在の河川名「境川」になったと伝えられています。二つの国の境であることに由来して、境川流域には「境橋」や「両国橋」という名前の橋があります。
境川が境界に定められる前は、川を挟んで一つの村だった名残から、両岸には相原、小山(町)、矢部(町)、(上)鶴間など同じ地名が残っています。
昔は激しく蛇行していて、大雨のたびに洪水を引き起こしていたため「暴れ川」とも呼ばれていました。しかし、河川改修により、境川の流域の多くは川幅が広くなり、流れの穏やかな川となりました。
◆淵野辺を治めていた!?武将渕辺義博
淵辺義博は、室町幕府を開いた足利尊氏の弟直義に仕えていた中世の武将です。
『太平記』には、1335年に、義博が直義の命令で後醍醐天皇の皇子である護良親王を鎌倉で殺害し、その後、駿河国の合戦で直義の身代わりとなって討ち死にしたと記されています。
中央区淵野辺には、義博にまつわる史跡や伝承が残っています。
▽石巻伝承
義博は護良親王を殺害したように偽装して、ひそかに淵野辺の龍像寺裏手の洞穴にかくまい、親王と家臣を連れて陸奥国石巻に落ち延びたとも伝えられています。
宮城県石巻市にも、親王が義博たちに守られながら暮らしたとの伝承があります。石巻市には、義博の家臣の子孫だという家や、親王に縁のある地名、亡くなった親王が祭られているといわれる一皇子神社などがあります。
※出典:相模原市史
▽大蛇伝説
昔、境川そばの池には、龍のような大蛇が住んでおり、人々を苦しめていたため、淵野辺を治めていたとされる義博が大蛇退治を命じられました。
義博は、家臣を従え大蛇と戦い、彼が放った矢で大蛇の体は頭・胴体・尻尾に断たれ、これらが落ちた3カ所には、大蛇を供養するために寺院が建てられました。その後各寺院は荒廃しましたが、1556年に巨海和尚が龍像寺を再建しました。龍像寺には義博が使用したとされる矢尻と龍骨と伝わるものが納められています。
また、日枝神社では大蛇退治の祈願がされたともいわれています。
▽地域の歴史に詳しい 山口絹子さん(東淵野辺在住)
義博が淵野辺から石巻に向かう際、境川そばのエノキの木の下で妻子と縁を切ったとの言い伝えがあり、その木は「縁切りエノキ」と呼ばれています。
また、縁切りエノキそばにある中里橋は別れを告げた場所ということで「別れ橋」と呼ばれていたそうです。
問い合わせ:中央区役所区政策課
電話042-769-9802
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